フクシマ: 過去の過ちを繰り返さないで 【2013年の初めに日本の原発事情を考える~その2】

[2013年1月15日にイタリアの日刊紙《イル・マニフェスト》に掲載された記事を元に、昨年12月、帰国時の報告を3回にわたって掲載します。その1はこちら
                          ©資料センター《雪の下の種》 齋藤ゆかり 文&写真]

原子力の罠にはまった福井

 それにしても、なぜ、福井は福島原発事故にもかかわらず、原子力に固執するのだろうか。
 その理由を理解する上で、現地を訪ねてみるのはいくらか役に立つかもしれない。

 福島県は、面積4000km2に人口80万余りが住み、福島第一原子力発電所からは約500キロ離れている。古都京都の北に位置し、日本海に面していて海の向こうに朝鮮半島を臨む、いわば日本の古い玄関の一つ。
 今回の訪問は、東京在住のフォトジャーナリストで福島原発事故についても多数の著作がある豊田直巳氏に同行、地元の「プルサーマルを心配するふつうの若狭の民の会」の石地優氏に車で案内していただいた。

 2012年も残すところわずかとなった暗く寒さの厳しい日、敦賀駅から出るなり雪と雨の混じる風に帽子を飛ばされそうになる。
「この辺りは、冬は、いつもこんな感じの天気なんです」
 あいにくのお天気だ、というこちらの表情を即座に読みとってか、すぐに石地さんが言う。

 最初の訪問地は、敦賀原子力発電所に隣接する敦賀原子力館
敦賀原発には、廃炉になった「ふげん」を含め、3基の原子炉がある。安全をアピールする情報に溢れ、面白そうなゲーム機器も並ぶ(学校見学などが多数訪れるのだろう)原子力館からガラス越しに見える一連の建物は、最近、ペンキを塗り直した甲斐もあって、やけにきれいで整然としている。ところが、実は、1号機は世界で最も古い原子炉の一つ。最初の稼働からすでに43年が経過し、2009年には廃炉が予定されていたものの、新規原子炉2基の建設着工が遅れているために、まだ引退できずにいるのだ。


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 そうこうするうちに、最近、原子炉直下に活断層がある疑いが強まり、発電所全体の将来が危ぶまれている。ホテルや民宿などのサービス業をはじめ、原発を中心に経済が成り立っている地元の状況は、極めて厳しい。
「動かせるのか、廃炉にするのか、先が見えない今みたいな状態が一番困るんです」と石地さん。

 だったら、すぐ廃炉にすればいいのに、と単純に思う。
「廃炉に決めれば、廃炉の仕事が入りますよね、三十年とか五十年とかかかるわけだから。保証されるし、その間に代替の産業だって開発できるでしょう」と豊田さんも言う。ところが、そう簡単には問屋が卸さないらしい。
「廃炉になれば、その仕事があるし、再生エネルギーに転換すれば、そっちだってあるということは、理屈ではわかっても、やっぱり廃炉になった時に、具体的に自分たちにとってどういう仕事があるのか、職種も規模も不透明で見えていない。だから、今ある状況を何とか維持したいと思ってしまう
んです」。
 そう言って、石地さんは、若狭湾に最初に建てられ、原発銀座の起爆剤となった敦賀原発の歴史について話してくれた。




「今来た道、あんなにいい道、昔はなかったんです。急病とか、何かあった時には船で行かなきゃならなかったのだけど、船は天候によっては無理でしょ。だから、道路がここに原発を受け入れた地元の悲願だった。行政に見捨てられているところだから、いいとは思わなくても、やっぱり応えてくれた電力会社には、ありがたいという気持ちがあるんですよね」。

 電力会社は表向きはペコペコするが、仕事に関してはピラミッド型で威張っているので、地元の人たちの間では決して評判がよくないという。それでも、行政が国も県も市も何もしてくれなかったところでは、何かしてくれる相手には、どうしても恩に着てしまうというのは、想像に難くない。

 敦賀原子力館見学のあと、原発の裏側に回り、3号機、4号機の建設予定地に行ってみる。何軒か、閑古鳥の鳴く民宿が霙交じりの肌にヒリヒリあたる強風にさらされている様は、身につまされる。
果たして、ここに原発が建つ可能性は、まだあるのだろうか。

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「最初、電力会社は、色々なところに顔を出して、たとえば、祭りがあれば、お金を提供したり、できるだけ溶け込もうと、やけに細かいところにまで気を回していました」という石地さんの説明に、豊田さんがすぐコメントする。「ああ、侵略されたんじゃなくて迎えたというふうに見せるためにやる軍隊の宣撫工作と同じですね」。
 また、地元の若い女性にカードを送り、お土産付きのパーティーに招待して関電の若い社員と出会わせる「合コン作戦」も。「そこでカップルができれば、結婚した娘さんはもちろん関電の考え方に従うようになるのだけど、それだけが目的じゃなくて、そこの親類縁者すべてが、内心はいやでも関電を表向きは支持する側にまわるでしょ。そうやって反対の声が出せないようにするんです」。
 他にも、文化事業やコンサートなど、様々な形でお金をつかい、それまであった地元の生活を滅茶苦茶にしたそうだ。

 再び車に乗り、次の目的地に向かう。敦賀半島の東側から西側へ。ただし、今、来た道路を半島の付け根まで戻り、別の道をもう一度度北上することになる。

 敦賀への誘致は、県がまず一生懸命になり、適切な場所として敦賀に白羽の矢を立てセットした上で地元の議会にかける上からの決定だったそうだ。
 それに対し、高浜、美浜、大飯の場合は、いずれも敦賀の前例を見て、交付金をはじめ、大金が
入ってくることに納得、恩恵にあやかるために自治体が名乗りをあげるようになったという。

 かくして、1966年の敦賀原発着工に続き、1967年8月21日には、大阪の「万国博覧会に原子の灯を」を合言葉に美浜の1号機が着工。1970年代初めから76年にかけて1,2,3号機が次々に運転開始した。
 一方、高浜原発一号機「アトムくん」の着工は、1970年4月(2号機の「ウランちゃん」は翌年2月、3、4号機「みらいくん」と「あかりちゃん」は、ともに1980年12月)、74年から85年にかけて順番に商業運転を開始している。
 次いで着工、運転開始したのが、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所に次ぐ日本第二の規模、関電管内最大の出力を備え、現在日本で稼働中の唯一の原子炉二基がある大飯原発だ(着工1972年~87年、営業運転開始1979年~93年)。
 そして、最後に建ったのが、これから行く悪名高い「もんじゅ」だった。

 敦賀半島の西側の「もんじゅ」に着く前に、突然、美浜原発が視界に現れる。丹生の海水浴場の正面、島のような場所にベージュにこげ茶の横縞が一本入ったプラントが浮かんでいる。
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海外から訪れたジャーナリストなどが「クレイジーだ!」と叫ぶ場所らしいが、漁業組合、ハマチやタイの類の養殖場、そして小学校が目の前に並ぶ。まさに安全神話を信じようとした様をまざまざと実感できる環境だ。雹の降る中、中学生が数人歩いている。彼らにとっては、生まれた時からある、当たり前の風景なのだろう。


「金山でもありゃ、原発なんて、いらない」

 美浜原発の前で内陸に向かい北東へ。立派な道路のトンネルをくぐり、左は白木、右はもんじゅと書かれたT字路を左に折れる。ここは、再び敦賀市。同じ半島の先の山の向こう側にある敦賀原発との直線距離はわずか10キロなのに、高速増殖炉「もんじゅ」には美浜町からしかアクセスできない。なぜ、向うから道路を延長しなかったのかしら。
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 白木は、15戸の小さな漁村だが、入口には立派な寺が、また集落の奥にはこぎれいな神社が建っている。あまり古くない瓦葺の立派な構えの家が並ぶが、ちょうどお昼の時間帯のせいか、人影は見えない。ここでも入江の向うに「もんじゅ」が鎮座まします。(思わず、「お願いだから、大人しくしていてね」と手を合わせたくなる)。
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白木の浜から「もんじゅ」を臨む。つかの間の晴れ間に遠望できる対岸は福井嶺北

防波堤も、湾にのぞむ斜面に建つ原子力機構のいくつか建物も、堂々たるもので圧倒されるが、考えてみれば、どれも本質的に国民の税金と市民が払う電気料金でできたしろものだ。

 「ここも、敦賀市からは見捨てられていて、道も作ってもらえなかった場所です。白木の区長をしていた人曰く、もんじゅの話があった時には、すでに敦賀と美浜の原発があった。その真ん中に位置しているから、何かあったら、結局一緒になる。どっちにしても自分らにとっては危険なもので、止められるわけでもない。だったら、いっそのこと、安全を信じてもんじゅを誘致する、と」
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 そういう石地さんに、豊田さんもうなる。「自分がそのときにここにいたら、そう思ったでしょうね。
ぼく、自分が賛成にまわったんじゃないかって、積極的賛成かどうかは別として、じゃあ、どうする
んだよ、ってことになる。・・・いやあ、こりゃ、間違いなくぼくも受け入れただろうね…」

 「もんじゅ」ができる前にここの人たちが言ったせりふで言い伝えられているものがあるという。
「金山でもここにありゃ、そんな、原発なんてもん、選ばんわ。何もないさかい、これ、えらばにゃならんことになる」。

 ここをはじめ若狭湾はサーフィン愛好家に好まれる海で、再稼働前には脱原発運動に熱心な俳優の山本太郎さんが若い仲間たちを連れて来てくれたこともあるそうだ。また、環境保護国際NGOグリーンピースも、地元の反対運動に若い人たちのエネルギーを取りこむ力を貸してくれているらしい。
「グリーンピースは地元に事務所も構えたのだけれど、独自のことはしないで、地元でこれまで活動してきた人たちを優先に、その人たちがまずいと言ったことは取り組まなかった。いくらでも勝手にできただろうに、そういう姿勢でしてくれていたので、ありがたかったです」と石地さん。


「原発抜きの道」を勝ち取った小浜市の孤独な戦い


 そういう石地さん自身は、長年、地元で原発に反対していない人たちとの対話活動を続けている。こちらの言い分を言うのが主ではなく、聞くのを主にした活動だという。
「若狭の地元で今でもはっきり反対しているのは、ほんの数人です。でも、ちゃんと残っている。負け続け周囲から変わり者だと思われれば、だんだん嫌になり気持ちも落ち込んできても当然でしょう? それが、そうならなかったのは、僕の場合は、対話をしていたからです」。
 もし、住民が本当に原発賛成だったなら、話など聞かずに玄関払いされてもおかしくないが、そのようなケースはほとんど経験していないという。  つづく
                   
by addionuke | 2013-01-16 22:37 | 関連ニュース
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